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写真家・石井麻木


『3.11からの手紙/音の声』という写真展をご存知でしょうか。

東日本大震災の直後から、今日も仮設住宅へ通い支援を継続されている写真家・石井麻木さんが、現地で撮影された写真と言葉で、その現実を伝えてくれる写真展です。2017年1月、初めて広島で開催されました。石井麻木さんの活動と、その活動に込められた想いを多くの人に知ってもらいたくて、来広中の彼女に取材を申し込みました。

今後も全国各地で開催される予定の写真展。既に何度も足を運んでいるという方も、まだ見たことがないという方も、この記事が今一度東北のことを想い、『3.11からの手紙/音の声』に興味を持ってもらうきっかけになれば幸いです。

Interview:Miyaco/Photo:MiNORU OBARA

―まず、石井さんがどんな方なのかを少しお聞きしたいので、写真を撮り始めたきっかけから教えてください。

もともとは絵描きになろうと思っていて、高校生の時は美大を目指していました。17歳の時に父親がNikonのアナログの古いカメラを置いて行って。それを手にしてから写真を撮り始めました、高校を10日間くらい休んで初めて一人旅に出たんです。その時は、遠くの人影とか、水に映る空とか、影とか、すごく寂しい感じの写真を撮っていて。写真ってこんなに人の心を写すんだって思って、「心を写す」で「写心」だって感じるようになったんです。それから絵を描かなくなって、写真ばかり撮るようになりました。だけど写真家を目指していたわけではなかったので、誰かのアシスタントについたりスタジオに入って教わったり写真学校に行ったりはしなくて、独学でただただ好きなものを撮り続けてきたんです。

―その頃は主にどういう写真を撮られていたんですか?

空の写真が多くて。あとは子供の写真とか、周りにバンドをやってる友達も多かったので音楽の写真だったり。それは今もほとんど変わってないですね。

―それが15年続いて、徐々に職業になっていったという感じなんですね。東日本大震災以降の活動について教えてください。以前、震災の直後に現地へ向かおうとしたけど行けなかったというエピソードを話されていたと思うのですが、その辺りをもう少し詳しく教えていただけますか?

はい。震災の翌々日に現地へ入ろうとしたんですけど、東京ではガソリンが手に入らなかったんです、一人千円までしか入れられなくて。自分の車では行けなかったので、行こうとしてるいろんな人たちに「乗せてください」って頼んだりもしたんですけど、原発が爆発した直後だったのでまだ状態がわからないから「女性と子供は絶対に連れて行けない」って言われて。それはみんなの優しさですよね、危ないからって連れてってもらえなくて。2、3週間くらい経ってから、もう、強行しました(笑)。最初は福島の避難所へ行ったんです、『風とロック』の箭内さんと一緒に5か所の避難所を回りました。段ボールに花が挿してある写真を写したのはその時なんです。郡山ビッグパレットっていう、二千人くらい入れる一番大きな避難所でした。写真を撮るためじゃなくて集めた毛布や水や食べ物などを持って行きたくて向かったんです。

―初めて現地に入った時はどういう気持ちでしたか?

とにかく何かしなきゃ、どうにかしなきゃっていう気持ちだけで、自分に何ができるかわからないし、でも物を運ぶくらいならできるかなって。いろんな気持ちがありました…もちろん不安もあるし、当事者じゃない私が足を踏み入れていいものなのかどうか、とか。まだ揺れも治まってなかったし、一ヶ月後の4月11日にひとり沿岸部を車で走ってるときには震度6弱の余震があって津波警報が出て「あ、このまま私死ぬのかな」と思ったりもしたし…。その頃は毎週1回行っていたので、毎回命懸けというか、何があっても仕方がないなっていう覚悟でした。でも現地には毎日そういう想いで過ごされてる方がいて…、とにかくできることをしなきゃってその一心でした。

―そこで物資を届ける活動をされていたんですね、最初は写真を撮るためではなく。

そうですね。ただ、私は写真家なので常にカメラは持ち歩いていたんです。肩にかけて隠すようにして持っていました。そのカメラを見つけた避難所の方々から「とにかくこの現状を撮ってほしい、この光景をもっと全国に伝えてほしい、知ってもらいたい」ってすごくたくさん言われて。…その時たまたま隣にいたあるテレビ局の報道カメラの人が、何の許可もなしに、避難所の段ボールの仕切りを指さして「ここから撮るよー」って急にカメラを回し始めたんです。で、ある女優さんがお菓子を配り始める様子を撮り始めて。それって誰のためのもの、何のためのものなんだろうってすごく悔しくて。なんてひどい暴力なんだろうって思ったんです。既にとても傷ついている人たちに対して更に傷を負わせるようなことをしていて…カメラはこんなにも武器になるし、それって1番しちゃいけないことだと思いました。それまでは写真は撮るつもりはなかったし、写したいとも思ってなかったんですけど、「写して伝えてほしい」という当事者の方々の声があったことで、写真にはそういう役目もあるんだっていうことを教えてもらいました。私なんかにその役目ができるなら、と思って写し始めました。だからといって私は報道カメラマンでもフォトジャーナリストでもないので、そのような伝え方はできないし、悲惨な光景だけを伝えるのも違うと思って、リアルな避難所での日常を写させてもらうようになりました。何度も何度も通う中でみなさんと打ち解けて、そういう中で生まれた表情を写させていただいて。もちろんその時は写真展を開催して伝えていくとはまったく考えていなくて、ただ写すだけだったんですけど。Candle JUNEさんが、「(震災から)1年後の2012年3月に大阪で『LOVE FOR NIPPON』っていうイベントをやるから写真展も一緒にやってくれないか」って言ってくださって、1年分の写真をそこで初めて展示したんです。現地に行くたびに「伝えてほしい」って言われるので、これはちゃんと知ってもらわないといけないっていう想いが強くなっていて、私は写真でそれをやろうって思うようになりました。離れたところに住んでると、簡単には現地へ行けないじゃないですか。だから、そういう街へ写真を持って行って見てもらおう、と。それを見た人が、自分にできることを探してもらえたり見つけてもらえたりするかもしれないから、徐々に各地で開催地を増やしていこうと決めました。

―カメラが武器になり得るっていう言葉は印象的です。シャッターを切ることが人を傷つけるかもしれないけど、そういう行為を自分がしてしまう可能性があるっていう葛藤はありませんでしたか?

葛藤はすごくあります。今でもあります。

―それでもその行動に自分でOKを出せたのは、その当事者の方々の声があったからということなんでしょうか。

そうですね、それだけです。「写して伝えてほしい」っていう声に対して、「写しません」っていうのは違うと思うし、写すことが役に立てるんだっていう気持ちも生まれてきたので。

―いいのかなって思いながら撮ることが今でもあるんですね。

あります、あります。仮設住宅では特に毎回思います。

―石井さんは「写真家は写真だけでいい」という考えもお持ちとのことですが、今回は敢えてトークイベントを交えたり写真に言葉を添えたりされているのは、どういう想いからですか?

写真だけでは伝わらないものがどうしてもあるんです。作品としての、アートとしての写真なら言葉は要らないんです、だから【15years】の展示は何も語らなくていいと思ってるんですけど、【3.11からの手紙/音の声】のほう、東北のドキュメンタリーのほうは、作品として、アートとして撮りたくなかったし、写真だけではどうしても伝わらない部分があるっていうのを思い知ったこともあって、言葉が必要だと思いました。東北のほうの写真は、写真だけでも足りない、言葉だけでも足りない、映像だけでも足りない、どれだけやっても足りなくて…写真だけ見てわかってくださいっていうのではなく、とにかく伝えられるものは、自分の中にある何もかもを使って伝えたいと。私は本当に話が下手だし、上手く喋れないけど、何かひとかけらでもいいから写真だけでは伝わらないものも届いてくれたらいいなと思ってます。

―事実を伝える言葉、ということですかね。

そうですね。報道されない現地の方の生の声は写真だけでは伝わらないので、言葉にして知ってもらおうと思って。

―石井さんの言葉から考えさせられることも本当にたくさんあって、トークイベントや言葉で伝えてもらえて良かったなって思います。避難所や仮設住宅へ何度も通う中で、特に印象に残っている言葉やシーンってありますか?

2011年4月に、宮城県の山元町っていう津波の被害が大きかったところへ行ったんです。避難所にも人が溢れているような状況で、避難所の駐車場で軽トラで1か月間過ごされているご夫婦がいて。トラックに乗ってるおふたりが笑顔でこっちを向いてる写真がそうなんですけど。そのおふたりが私のカメラを見つけて「家も流されて、アルバムも流されてしまって、家族の写真が1枚も残ってないけど、今日から新しい一歩を踏み出すために最初の1枚を写してくれませんか」って声をかけてくださって。写真ってそんなこともできるんだって思って、「はい、私でよければ写させてください」って撮らせていただいたのがあの1枚なんです。あと、家もなくなってしまって1人になってしまったおばあちゃんが、着の身着のままお財布ひとつだけ握りしめて過ごされていて。そのお財布には1枚だけ家族写真が入っていて、「みんないなくなっちゃったけど、この写真の中にみんないるんだ」って言って見せてくれて。他愛のない写真なんです、家族が笑顔で写ってるような。だけど写真って、それを撮った時の会話だったり、温度だったり、思い出が詰まっていたりして、記憶が蘇るじゃないですか。記憶が詰まってる。言ってしまえば、写真って1枚の紙きれなのに、すごいなって…10年以上写真を撮っていたのに、初めて写真の重みを教わったというか。写真の力をそこまで考えたことがなかったので、いろいろな意味で衝撃でした。そのふたつが、言われた言葉の中で特に心に残ってます。

―そうなんですね。個人的には、郵便屋さんの写真を見て感じるものがありました。この郵便屋さんはこの瓦礫の中を、どこへ向かって走るんだろうって思って少し重たい気持ちになったんです。

家は壊れちゃってて、表札もないし、その中をバイクで走ってる写真ですよね。みんな避難所にいるから、そこで一人ひとり名前を呼んでお手紙を届けられていて。もしかしたらその方は亡くなられているかもしれないけど…。あの光景もすごかったです…。

―現実に、そういう中での生活があったんですよね。東日本大震災の後も各地で災害があったりもして、生きるために必要なものって何なのかなっていうことがシンプルになった側面があったと思うんです。

ありますね。すごくシンプルになりました。ほんとうに大事なものはそんなに多くない。

―その中で、音楽が持ってる力や、写真が発揮できる力っていうものも、改めて見えてきた面があるのかなっていう気がするんですけど。

それはすごくあります。それぞれの役割というものをすごく感じて。歌える人は歌を届けて、おいしいごはんを作れる人はごはんを作って、マッサージができる人はマッサージをして。私はたまたま写真だったので写真を写させてもらって。一人で全部は絶対にできないし、そんなことは誰も望んでない。それぞれがそれぞれの場所でできることが必ずあると思うので、それを思い知らされたというか。無理してまで何もかもやろうとするんじゃなくて、それぞれが自分にできることをやって、それを伝える。私は、震災前から音楽の写真を撮っていたので、音楽は自分が生きるために必要なものでもあるし、音楽で元気になる人たちの表情をたくさん見てきたので、音楽ってこんなにも人を生かす力があるんだって思って、どうしても切り離せなくて。だから、写真集も、写真展も、音楽の写真と風景の写真を半分ずつ載せたんです。喜びも悲しみも両方伝えたいと思うんです、悲しいことばかりにフォーカスするのも違うし、こんなに元気ですよっていうことだけ伝えるのも違うと思うから。いろんな人がいるし、いろんな声がある、それを少しでも可能な限り伝えていけたらと思っています。

―震災から今年で6年になりますが、石井さんが頻繁に現地へ行かれていて感じる、変わったこと、もしくは変わらないことって何かありますか?

以前写真展に来てくださった方の印象的な言葉があって、「毎日が3月11日なんです」って言われていたんです。多くの人は物理的に離れた地にいたり、直接的な被害に遭っていない人はそうじゃないと思うんです。でもその方にとってはずっとその日が続いていて、たぶん一生続く。世間では、報道もどんどん減って取り上げられなくなったり、「もう復興したでしょ?」って言われたり「まだやってるの?」って言われたりするんです。関心を持たない人にとっては過去のことになってるけど、その人にとっては3月11日が毎日続いていて、変わっていない面もある。もちろん人は忘れていかなきゃ生きていけないし、薄れていくことは人間である限り仕方がないことだから、それは全然否定はできないんですけど。ただ、現地の方々は「関心を持ってもらえるだけでいい、忘れられることが何よりも怖い」って仰っていて。とにかく募金してほしいとか、なにがなんでも無理してでも現地に来てほしいとか、そういうことじゃなくて、いまも現地で、不安が続くなか暮らしている人がいるっていうことを知ってほしいっていうことですよね。無関心な人に関心を持ってもらうように人の心を変えていくのは簡単なことではないですけど、でもそういう声があるよって伝えることは続けていきたいと思います。変わってきたことといえば、仮設住宅が徐々に減って復興住宅に引っ越す方が増えてきていることもそのひとつですね。でもそれが必ずしもいいことだけとは限らなくて、仮設住宅でやっとできたお友達とまたバラバラになってしまうのが不安だ、さみしいという声もある。6畳一間の仮設住宅をやっと出られてうれしいっていう声もある。いろんな声があります。変わったことはたくさんあると思います…うまくまとめられないんですけど。

―石井さん自身のなかで、6年前と今とで気持ちの変化は何かありますか?

今は、仮設住宅に行くたびにおにぎりを食べきれないくらい用意して待っててくれたりするんです。帰り際に「これ持って帰って」っておにぎりを15個くらい持たされて(笑)、帰りの車でそれを泣きながら笑いながら食べながら、おばあちゃんたちやこどもたちの顔を思い浮かべたりもして。今は、みんなに会いに行く感じです。子供たちと鬼ごっこしたり、おばあちゃんやおとうさんたちとお茶を飲んだり、実家に帰るみたいな感じで。本当に笑顔が増えたし、「おかえり!」って迎えてくれるんです。当初は、みんな不安と恐怖と余震の中で暮らしていたからそんな状況じゃなかったけど、今は家族の中に帰らせてもらっている気持ちがつよいです。

―今でも物資を運ぶことはあるんですか?

必要としている物があれば持って行くんですけど、例えば水とかレトルト食品とかは震災直後には緊急で必要なものだけど、今は緊急には必要とはされていないので。今はそれよりもお話を聞かせていただいたり、こどもたちと遊ばせてもらったり。小さい子がいるお母さんたちは線量の不安や引っ越した先でいじめられてしまうかもしれない…、そういう不安を話してくださったり。今は物資よりも、精神的な支えやこの先も続いていける、気持ちの繋がりが大事だと感じています。

―今後、この写真展はどういう風に展開される予定ですか?

まだ持って行けていない地に持っていけたらいいなと思っています。この5年間で何か所か回ってきましたが、ずっと待ってくれている場所もあって、そこには持っていきたいと思っています。ただ、東北のドキュメント写真では1円ももらいたくない想いから、東北の写真は販売はしていなくて、写真集の印税は全額寄付させていただいているので、各地での写真展も収益を出す方法がない状態で自費でやっているので、今回は【15years】という作品のほうの作品を販売した収益で【3.11からの手紙/音の声】を次の土地へ持って行く資金にする形で開催させていただいています。もちろんこのペースで続けていくことは資金面、体調面ともにかなりきついのも事実ですが、もうやらなくていいって言われるまでは、待ってますという声がなくなるまでは、動けなくなるまでは、【3.11からの手紙/音の声】はなんとかして全国に届け続けたいです。

―今後も引き続き現地へも行かれるということなので、写真が増えたらまた2回、3回と広島にも来ていただきたいです。

そうですね、写真は増えて行くいっぽうなので、また新しいものも見てもらえたら嬉しいです。何度でも来たいです。広島も、よりだいすきな、たいせつな地になりました。

石井麻木 ISHII MAKI

写真家。

1981年 東京都生まれ。

写真は写心。

一瞬を永遠に変えてゆく。

毎年個展をひらくほか、詩と写真の連載、

CDジャケットや本の表紙、映画のスチール写真、

ミュージシャンのライブ写真やアーティスト写真などを手掛ける。

東日本大震災直後から東北に通い続け、現地の状況を写し続けている。

2014年11月、写真と言葉で構成された写真本『3.11からの手紙/音の声』を出版。

収益は全額寄付している。

石井麻木オフィシャルサイト http://ishiimaki.com

2009年からカンボジアの農民の自立支援を促す活動を始める。

NPO法人 Nature Saves Cambodia-Japan

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